第二期(世界へ)      プロフィールへ戻ります

姉妹提携のみちのり



前 会長 小松登希男氏(1982年談) 

 1981年の2月、長野県合唱連盟のトップの役員と県教育委員会文化課長らとの懇談会が長野市で行われた。その時、県側から夢のような県民文化会館の一大構想を聞いて、同会議に出席していた林昭男氏(岡谷合唱団相談役)がとんでもないことを考えたのである。
 ムジークフェライン・ザール(ウィーン楽友会館ホール)とこの県民文化会館をドッキングできないものかという強い願望である。

 この構想をはじめに聞いた筆者は、あまりにも夢物語で、正気の沙汰ではないと思った。岡谷合唱団にウィーンに来ないかという誘いがかかっている。気運を上手に生かせばまたとないチャンスとなるのではないか。相談を受けた馬淵皓県合唱連盟顧問(辰野町)は即座に同調。林、馬淵、筆者の三者会議は、時を選ばず、提携実現に向け精力的に展開され、南信地区では、岡谷を中心にウィーンへの気運が日ごとに熟していった。
 県民文化会館を一気に世に出したい。ウィーン・フィルを長野へ、つきあいきれないような誇大な模索のなかに強力な助人が現れた。日本側飯島岱氏(世界合唱連合・日本国内委員)と、ウィーン側エルビン・ヴァイス教授(元コンセルヴァトワール学長)である。このお二人の熱意ある民間外交は着実に積み重ねられ、ウィーン市長をはじめ、楽友協会事務総長アルベルト・モーザ教授ら関係者を動かすに至り、遂に姉妹提携の実現をみたのである。
 なぜウィーン側がその気になってくれたのだろうか、正直なところ実感として理解するまでにはかなりの時間を要した。1982年の12月初旬から中旬にかけて、モーザ教授とヴァイス教授が相ついで長野県を訪れた。機会をとらえて両教授に訪ねたところ、お二人からの返答は奇しくも同じであった。「あなたがたの提案はグッドアイディアです。楽友協会110年の歴史の中でこうした援助の方法があることを誰も気づかなかった。」というのである。
 1981年12月ウィーン側から姉妹提携の内諾を得たことから、長野県合唱連盟は本1982年1月緊急理事会を開き、岡谷合唱団を主体とする県選抜合唱団を調印記念演奏会のため、ウィーンに派遣することを決めた。渡墺計画はウィーンプロジェクトメンバーにより綿密に練られていった。県と民間団体がひとつになった訪墺プランが陽の目をみるときが来たのである。
 今回のウィーン訪問メンバーは県調印使節のほかは、合唱関係者にとどまったが、今後ウィーンとの文化交流にあたっては県内のあらゆる文化関係者の協力による取りくみがされなければ姉妹提携の実をあげることは困難であることを心に銘記したい。

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ウィーン・ブダペスト


ウィーン在住音楽家  岡本 勝氏   

 岡谷合唱団の皆様、そして長野県選抜合唱の皆様、ウイーンムジークフェラィンでのご成功お目出度うございます。演奏会に於ける成功という事が、演奏者の最高のものを出し尽し、その燃焼度を聴衆も肌で受けとめ、音楽の喜びを分かち合えるというものである以上、今回の濱奏会は大成功であったと思います。
 私の知るかぎりでは東欧(の事はよく知りません)を除くヨーロッパのアマチュア合唱団でこれ程密度の濃い演奏をする合唱団を聞いた事がありません。日本にはまだ他にも皆様と同じ程度の合唱団があると聞きました。この20年に日本の合唱界は何と進歩した事でしょう。

内心、日本の合唱団と聞いて余り期待はしておりませんでした。声は大きい方が良いとばかり罵声を張り上げていた一昔前のそれを想像していた私は、皆様の第一声を聞いて、その素直な無理のない唱い振りに驚ろかされました。これはもう革命的な進歩だと思いました。その上2番目の石井歓のプログラムでは曲の素晴らしさもさる事ながら、技術的な困難さも克服して、あれだけ見事にまとめ上げる事の出来た力量と熱意に感心しました。そして最後の日本合唱曲集、往々にして単調になり安い曲を、編曲の良さと合いまって素晴らしく演奏され、多くの日本の聴衆の郷愁を呼び、涙をさそったという事でも、皆様の演奏の水準の高さを証明していると思います。
 演奏会が終って感じた事は「この合唱団はアマチュアの合唱団としては行き着く所まで来てしまっている」という事でした。そしてさらに発展するにはどうすれば良いかを考える時、個人の技術を磨く事以外、方法がないのではないか、という事でした。咋今、日本ではよく、日本の音楽家は技術が先行して音楽性、心がない等と言われております。そして、それによって最も基本的な技術(音楽性のある音を産み出す技術)をも軽視され勝ちです。しかしこちらでは全くその基礎的土台である音楽的な音の上に初めて音楽の演奏が可能なのです。そしてこの基礎作りのために音楽家は何年、何十年と努力をするのです。もちろんこれはプロの領域の話です。
 しかし皆様方も立場はあくまでアマチュアでそのプロの領域まで突入してみてはいかがでしょうか。ただ、今回あの演奏会がウィーンで超満員とは云え、あの会場の人達にしか聞かれなかったという事が非常に残念でした。
 もっと多くの人が聞いていればそれがオーストリーのあるいはヨ−ロッパの合唱界を発憤させたに違いありません。最後にもう一度皆様方の素晴しい演奏と関屋先生の選曲、指導性、統率力に心から拍手を送り、今後のご活躍を期待しております。

1982年12月10日ウィーンにて  

世界合唱祭

アジアカンタート in 長野


元 常任指揮者 関屋 晋先生 レポート(故人)

 1984年7月、第l回「アジア・カンタート」(世界合唱祭アジア週間)が長野市で開催された。「カンタート」という言葉は、日本ではまだ耳慣れないが、アジアばかりでなく、アメリカ、アイスランド、オーストラリア、オランダ、韓国、スイス、台湾、西ドイツ、フィリピン、ベルギー、香港、といった世界中の国々から合唱団が参加して、演奏会を開催したり、「アトリエ」に分れて日本中から集まった合唱団や個人でやってきた合唱愛好者と一渚になって、例えば、モンテヴェルディやトーマス・モーリーの『マドリガル』やモーツァルトの『戴冠ミサ』を毎日練習していって、最終日にはその成果を発表する「アトリエ・コンサート」を行なう、その間、朝起きると「オープンシンギング」がある、といった具合に、世界中の何十もの合唱団が合宿練習しているようなものである。したがって、この夏7月19日から24日まで、長野市内の演奏会場ばかりでなく、街の広場、宿泊所、いろんなところから合唱が聴こえてきたわけで、こんなすばらしいことを企画、実行してくれた長野県内の関係者並びに世界合唱連合の方々に、コーラス・ファンの一人として感謝したい。
 7月19日午後、国内での一般参加者や合唱団の人達が長野市内の宿舎に集まってくる。長野市には善光寺の宿坊があるから、大勢のお客様を迎える準備は万全である。束京からは世界合唱連合の役員や、外国からの「アトリエ」講師の方々が、バスに乗ってやってきて長野駅前で出迎えを受けた。この日、外国からの合唱団は長野県内の松本市民会館では、台北教師合唱団、オハイオ州立大学アルムニー合唱団。岡谷市民会館ではクィーンズランド音楽院合唱団、韓国大宇合唱団。伊郡市民会館ではオランダ・ディーチ・ヴォーカルアンサンブル。飯田市文化会館ではベルギーのカンタービレ・ゲント。上田市民会館では香港児童合唱団、アイスランドのハムラーリード合唱団。小諸市文化会館でばフィリピン大学少年少女合唱団、西ドイツ・オズナブリユッカー・ユースクワイヤーが、地元の合唱団に迎えられて「交歓コンサート」を開いたが、各演奏会場でも客が溢れ、非常に好評であった。

一方、長野市内のいくつかの「アトリエ」では、夜7時から熱のこもった練習が始められた。7月20日、午前8時45分、宿舎から市民会館大ホールに合唱愛好者が集まってくる。Tシャツ姿もあれば、ハッピを着た若者連もいて、カラフルで活々としている。講師の森啓一さん(甲南女子高校教諭)の司会で「オープン・シンギング」が始まった。こんな朝早く歌いに来る人がいるんだろうかという心配をヨソに、コーラス・ファンは健康的で、歌が大好きなんだ。歌っているのが楽しいんだろう。皆川達夫さんが編集された「ソング・ブック」から『大会歌』『夏の思い出』などを歌って、午前10時からの「アトリエ」練習に散っていく。午後になると、午前中各地の小学校等の見学や「ミニ・コンサート」を終えた外国合唱団が長野市にやってきて、「アジア・カンタート」のワッペンを付けた人連があちこちで「ハーイ」「ハーイ」と声をかけあう。国際的な合唱祭の雰囲気が街中に満ちてきた。
 夜の市民会館大ホールでは、前夜の集中豪雨で到着が大幅に遅れたのもなんのその「芸能山城組」が「ウェルカム・コンサート」で群芸『鳴神』を大熱演。
 7月21日「オープンシンギング」も国際的。「アトリエ」講師のヴィルリー・ゴールさんをステージに呼び出して、モーツァルトの『カノン』を皆で楽しんだ。進行没の森啓一さんは「ヨーロッパ・カンタート」を何度も経験されているので、手際のよい司会だ。この日から、内外の合唱愛好者が一緒になって「アトリエ」練習が始まった。「第1アトリエ」はフィリピン・フォークアーツ劇場音楽芸術監督のアンドレア・O・ヴェネラシオンさんが講師で、モンテヴェルディ等の『マドリガル』。「第2アトリエ」ではスイス・ヴィンタートール音楽院長でヨーロツパカンタート副会長も勤めたヴィルリー・ゴールさんがモーツァルトの『戴冠ミサ』全曲。「第3アトリエ」の講師は南カリフォルニア大学名誉教授で、この夏のロサンゼルス・オリンピックの開会式でも指揮をしたチャールズ・C・ハートさん、練習曲目はメンデルスゾーンの『聖パウロ』。「第4アトリエ」ではベルギーの「カンタービレ・ゲント」の指揮者で「ヨーロッパ・カンタート」の「アトリエ講師」を勤めたこともあるジョス・ヴァン・デン・ボーレさんがプーランクの「モテット」やベルギ一の現代作曲家の『アヴェ・マリア』等を。「第5アトリエ」では福永陽一郎さんが、阪田寛夫作詩・平吉毅州作曲、混声合唱のためのスケッチ『夢』。「第6アトリエ」では長谷川冴子さんが三善晃編曲の『おぼろ月夜』や外国曲を指導された。全体を大きく捉えてぐんぐん引張っていく講師、細かくコツコツと積上げていく講師等、各々の個性が出ていて引きつけられる。皆さんに共通していることは指導にユーモアがあることだった。
 21日午後4時から「オープニング・セレモニー」。長野県関係者や世界合唱連合会長ポール・ヴェーレさん、世界合唱連合副会長で大会委員長石井歓さんを迎えて、お国振りの民族衣裳も華やかに開会宜言。夜6時から、地元長野市民合唱団コール・アカデミーや岡谷合唱団が内外の合唱団と行なった「特別コンサート」は、各合唱団がお得意の曲を披露すれば客席は立上って拍手「ブラボー」の声に埋まってしまい、10時まで続いた。翌22日は日曜日。中央商店街は「カンタート」に協力して歩行者天国。街中で『野ばら』や『ソーラン節』がこだまして、お祭気分は夜まで続いて賑やかだった。23日からは県民文化会館、市民会館、国際会館で「プティ・コンサート」。いろいろな合唱団が同時に行なっているので、みんな聴けないという賛沢な不満がでたほどだ。24日午後1時、全員が県民文化会館大ホールに集合して「アトリエ・コンサート」で勉強の成果を発表。続いて「サヨナラ・セレモニー」ヘと続いていった。「おめでとう、おめでとう」みんな幸せそうだった。真に「合唱漬かり」の忘れられない1週間だった。


1984.11.16 第31回定期演奏会プログラムより  

 今年の夏「アジアカンタート・イン・長野」は画期的なことだった。日本中の合唱愛好者が注目したのではなかったろうか。各地区で行われた「コンサート」も大成功で、岡谷合唱団も韓国の「大宇合唱団」やオーストラリアの「クィーンズランド音楽院合唱団」と仲良くなり、友達もできた。また思い出が一つ増えたわけだ。
 岡谷合唱団は長野で行われた「特別コンサート」にも出演できたが、これも新しい経験で楽しかつた。あの熱烈な拍手はウィーンやブダペストでの演奏会を思い出させるようなものだった。皆が初見で歌う「オープン・シンギング」では、アイスランドやフィリピンの歌を教えて貰った。「アトリエ」で講師の注意する一言々々を聞き逃すまいと一所懸命になった。またいつか会えたらいいなと握手しながら歌った「サヨナラ・コンサート」長野県合唱連盟が燃えに燃えて、日本の合唱運動を前進させた一週間だった。岡谷合唱団では、この夏出会った合唱団や、「アトリエ」での出来事の話がよくでてくるが、よく噛みしめることだと思っている。いいことは積極的に取り入れることだ。そうやって合唱団の血や肉を増やしていくことが大事なのだ。世界は広い、すばらしい合唱団がいっぱいあると知っただけでもいいと思っている。
 今年は自発的な演奏を試みてみた。自分たちで創り、自分たちで楽しみたいと考えたからだ。この夏の幸せが、こんなところにも出てくれればいいのだが……。

「晋友会」ベルリンフィル

元 団員 梶原 博雄 氏(1988年 談)  

 ベルリン・フィルハーモニー交響楽団との共演、この夢のような話が現実となった経緯については、新聞等でも報道されたのて省略するが、7年前から「晋友会」に加わっていた岡谷合唱団からも、最終的に15人が、この桧舞台に立つことになった。

演奏曲の『カルミナ・ブラーナ』は、躍動感あふれる魅力的な曲だが、古ラテン語と古ドイツ語による詞が大変難しく、暗譜に苦労した。総勢180名の晋友会合唱団が同じ日に渡欧するのは無理なので、いくつかのグループに分かれて出発した。岡谷は6月19日の夜に成田を発ち、20、21日をコぺンハーゲンで過ごし、21日の夕方ベルリン入りした。
 22日から、いよいよ練習に入った。22日は合唱だけだったが、思うように声がでず、しっくり合わない。せっかくの欧州だからと、時間の許す限り観光し、2日間も遊びほうけて疲れ切っている所へ、時差ボケが重なり、最悪のコンディションだった。
 大変不安な気持ちて、臨んだオケ合わせだったが、オーケストラの音を聴いた途端、そんな気持ちがすっ飛んだ。たっぷりと溢れ出るように流れる弦の音、尖ったような音になり勝ちなトランペットやトロンボーンも、常に柔らかさを失わない。こんなに素晴らしいオーケストラと共演できる喜びで胸が熱くなって来る。小澤征爾先生の棒とオケに乗せられて、とても楽しい練習となった。
 さて、いよいよ24日の本番を迎えた。超満員の聴衆を見ると、緊張感は一層高まった。最初のffは、かなり強く歌い出せたようにおもった。小澤先生が練習の時とは違い、楽しそうな表情て、振ってくれたので、すっかり、リラックスして歌えた。終曲の最後の音が長く伸び、これでもか、と思うくらい長く、精一杯声を出し切って曲が終わった瞬間、会場のあちこちから「ブラボー」の嵐。小澤先生が合唱団を起立させた時、拍手の音が最高になった。私は思わず「やった!」と口走ってしまった。素晴らしい感動。ここまで、やって来て、良かったとおもった。引っ張ってきてくださった関屋晋先生に心から感謝している。

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