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岡谷合唱団のあゆみ



元常任指揮者 渡辺  功 先生(1982年談)

 岡谷合唱団が全日本合唱コンクールに通算10回出場の偉業をなし遂げ、全国の合唱界に「岡谷」ありとその名を高めたことは、実に名誉なことで過去27年間に在籍した団員と共に喜びたいと思う。
 今思うと、楽しかったこと、うれしかったことが団員の笑顔と共に甦り感無量となる。しかし、これまでに岡谷合唱団の歩んだ歴史は必ずしも栄光への花道ばかりではない。合唱団がここまでに育ち発展した陰には、多くの苦労談が潜んでいる。いわば涙の物語である。このことは、合唱団が続く限り語り継がれるべきだし、最近は喜びの陰に昇華されつつあると、もう一度原点に返って、あらゆる面で再出場を余儀なくされている現状を見るにつけ、有意義なことと思う。
 先ず合唱団発展の歴史を内容から考察すると次の5項目が挙げられよう。
1.トップ幹事のビジョン
 昭和20年代から、全日本的な視野でものを考えていたこと。コンクールについても、全国大会を聞きに行き、全国の合唱界の動きを把握し、出場団体、レベル、選曲等の情報を提供、ひそかに岡谷合唱団の出場を予期し、そうなった場合の対応の仕方を研究し、トップ幹事で検討を始めていた。したがって中部大会に上位入賞がされる頃からは、具体的な研究がなされ、44年初出場の際には、何の戸惑いもなくスムーズに進行した。特に、林昭男氏の洞察力、行動力は実に優れ、賞賛されるべきである。
2.合唱団のオーソドックスな活動
30年、私が常任指揮者に就任以来、合唱の原点である古典宗教曲を中心とした選曲が行われ、広く高い見地から


狭い縄張りや偏見になりがちの県下合唱界のあり方に斬新な気風を吹き込み、他に先がけて考えられることを実行し、又役員もそれを理解し協力を惜しまなかった。
3.全団員の取り組む姿勢
 良い演奏、心に残る感動の演奏とはどういうものか、とかく視野の狭い合唱団では自己満足に陥り易いが、その点をカバーするには、レコードによる名曲を聞くこと、初期の頃には50回に及ぶレコードコンサートをやった。又他合唱団の演奏を聞くこと。東京へ出かけて関東合唱祭へも二度参加した。一方、演奏上の妥協は許されない。厳しい練習に耐えること。時間厳守(5分前の精神)出席率によるステージへの出場停止、一人一人歌って個々の開発をするなど、他のお楽しみ合唱団では考えられないような試みがなされ、だんだん定着していった。あまりの厳しさに涙を流し練習に参加している姿も見られた。又この厳しさに耐えようとする団員の姿勢、役員の指導方針も効を奏していった。道楽の旦那芸やお嬢さん芸では、本物は出来ない。生命をかけてコーラスをしよう。仕事や家族と同等にコーラスを考えよう。「忙しい」「ごしたい」という言葉はこの合唱団では通用しない、といった風潮はその頃から醸成されていった。
4.連盟及び中央合唱界とのつながり
 関東合唱祭での講評は「遠路はるばるご苦労様でした」だけで大ショックであった。他の合唱団は発声がどうの、演奏がどうのと評されていたが、我々はそれ以前だったらしい。勿論まだ名も知られていないし、演奏も未熟だ。だから仕方もなかった。これならば、中央と何らかのつながりを持ち、立派な先生から直接指導を受け、吸収できるものはすべて吸収し、取り入れていこうと決心するものである。青木八郎氏(砂山合唱団)、内本実氏(中部理事長)をはじめ、私が県連理事長となる時期を同じくして、磯部淑氏、皆川達夫氏、高田三郎氏、大中恩氏、関屋晋氏、高野広治氏、村谷達也氏、清水脩氏ほかとの接触が出来、講習会や、合唱団単独で指導を受けることとなる。このことが、合唱団の実力をつけると共に、視野を更に広くすることに役立ち、いつも全国的な視野で物事を考えるようになったのである。
5.川口耕平氏
 良い演奏には、良い伴奏で思う存分歌い上げることである。私の教え子である川口耕平氏の伴奏はすばらしく、合唱団発展のきっかけを作ってくれた。彼を通じて一流の音楽家、中沢桂氏、栗林義信氏、坂本博士氏、平野忠考氏、芳野靖夫氏、田口興輔氏、伊原直子氏、常森寿子氏などと協演し、高い音楽性と、歌う喜びを感得し、演奏活動も次第に盛り上がっていった。その点でも川口氏の功績は、高く評価されるべきである。
 次にコンクールを時代で区分すると、次の様になる。
1.34年〜40年 県大会でいかに優勝し、中部大会に出場する。
2.41年〜43年 中部大会で上位入賞するようになったが、どうしたら愛知勢に追いつき、破ることが
          出来るか。
3.44年〜46年 全国大会で、幻の合唱団と言われないために連続出場したい。
4.47年〜50年 全国大会に安定しているが、銀賞の壁は厚い。
5.51年〜52年 力の限界か、中だるみか、道はまだけわしくて、遠い。
6.53年〜    姉妹合唱団、松本アルモニアの応援を得て、どうやら安定した地位を保持出来たが、今後どう乗りきったらよいか。
 以上のようにまとめられるが、今後に大きな問題を残している。
この反省録を、今後の合唱団の進むべき指針の参考にし、各人が本気になって合唱団の将来を考えて欲しい。

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合唱連盟と岡谷合唱団


元 相談役 林 昭男氏(1981年 談) 

 長野県下で、岡谷合唱団は最も合唱連盟と深い関連をもち続けた合唱団である。
 県下で最初の合唱祭である「岡谷合唱祭」を昭和30年に発足、企画運営に当たった。昭和31年7月に岡谷合唱連盟を結成。これが合唱連盟に関係した最初であった。
 中央に眼を向けるため、昭和32年に関東合唱連盟に加盟し、関東合唱祭に2回出場。昭和33年には関東合唱理事長の津川主一先生からの依頼で、10団体以上の加盟を条件に、長野県合唱連盟を作った。朝日新聞東京本社にある関東合唱連盟に加盟手続きをすませた翌日、朝日新聞名古屋から「長野県は名古屋本社の管轄だから、東京に加盟させる訳にはいかない」とクレームがついた。朝日新聞名古屋本社から、企画部長が長野に派遣され昭和33年7月、現在の長野県合唱連盟を作った。このような経緯から、岡谷合唱団は翌34年から加盟し、第1回長野県合唱祭から行事に参加している。
 昭和35年9月、長野県合唱連盟の下に南信合唱連盟を作ることになり、すでに活動していた岡谷合唱連盟を核に据えた。その結果、役員は薩摩光三理事長、渡辺功副理事長、林昭男主事、小松登希男副主事など、岡谷勢が占めることになった。




 桜井誉人理事長の長野県合唱連盟は、朝日新聞長野支局に事務局があり、とかく北信中心になりがちだったが、岡谷合唱団は、常に全県を見据えた前向きな提言をし続けた。
 全日本合唱連盟の法人化を機会に、桜井誉人理事長は任期なかばで辞任され、昭和44年から渡辺功理事長、林昭男主事の体制となり事務局が朝日新聞長野支局をはなれた。県連運営が岡谷合唱団に任せられてから、県連の大改革を始めた。初めに手掛けたのは難問視されていた会費制度や維持会員制度であったが、県連の熱意と周囲の協力とによってスムーズに法人化することができた。また貧弱な県連財政は、その後の積極経営が功を奏し安定した。初の試みである合宿形式講習会は好評で、その後は連続して成功を納めることができた。理事長を出している故に、常に合唱団ぐるみの大動員がかかったが、こうした団の動きは、県全体のレベルアップのためにかなりの貢献をしたと自負している。当時の中部合唱講習会で他県はみな赤字で悩んでいたが、長野県だけは大幅の黒字で、余剰金を中部に還元して他県を驚かせた。
 中部合唱連盟での発言権が与えられてからは、中部の体質改善を積極的に推し進めた。手始めに従来、奇数年は名古屋、偶数年は他の6県持ち回りの中部合唱コンクールを、7県の完全持ち回り制にと提案。その第1回が45年の松本大会から実施された。
 一方コンクール審査員は、43年までは各県1名で、名古屋や中央から数名という人選だったが、全国レベルの専門家3名または5名にするよう主張。激論の末に、44年の福井大会から実施された。この大会に内本実、石井歓、高田三郎、磯部淑、山根一夫の諸氏が顔を揃えた背景にはこのような長野県連の発想の転換と執拗な努力があった。その成果が表れたのではあるまいが、この福井大会で岡谷合唱団は初優勝を飾ることができた。
 更に、中部では維持会員の獲得、ハーモニーの購読、母親コーラス大会への参加などで、常に他県を積極的にリードしてきた。例えば、維持会員の獲得数は全国目標の2倍、ハーモニーの購読実績は4倍、と他県を圧倒している。
 長野県の提案で中部7県首脳による合宿形式の交歓会も45年から実現。長く続いていた愛知、岐阜、三重の常任理事による常任理事会制度廃止などの改革は、52年に塩沢荘吉理事長に引き継がれるまでに、ほぼ完了し、中部合唱連盟には新しい風が流れるようになった。
 全日本合唱連盟はこうした積極的な岡谷合唱団の動きに注目、42年の日本の合唱の歴史演奏会初日最終ステージという重責を担わせた。また46年のハーモニー創刊号で岡谷合唱団を紹介するなど陰からの支援もおこたらなかった。
 県連事務局が長野市に移ったあとも、合唱連盟に対する前向きな姿勢が変わることはなかった。


「日本の合唱曲の歴史演奏会」

元 団員 川瀬(酒井) 康子氏(1994年 談)  



 創立20周年を迎えた全日本合唱連盟では記念行事として、昭和42年11月18・19日、東京新宿厚生年金会館大ホールで「日本の合唱の歴史演奏会」を開催した。

これは、従来日本の合唱団は外国の合唱曲ばかり歌っていて日本の合唱曲をあまり歌わなかった。曲がなかったせいもあるが、戦後20年間に多くの日本人作曲家による名曲が生まれ、各合唱団は競って日本の合唱曲を演奏するようになった。そこで全国で盛んな活動をしているアマチュア合唱団28団体を選んで、明治以来の日本の合唱曲発展の礎石としようとする企画てあった。この輝かしい演奏会に岡谷合唱団は推薦され、第l夜11月18日の第9ステージを
     l.どしょっこふなつこ(岡本敏明曲)
     2.交声曲『不尽山を見て』(平井康三郎曲)
     3.ソーラン節(清水脩曲)で飾ることになつた。
 当時の岡谷合唱団は、団員120名余で中部コンクールでは東海メールクワイヤーに次いで2位。全国大会への夢をと頑張っていた頃で、この朗報に団員は一層はり切ったものだった。晴れの東京でのステージは気張らずに格調の高い演奏をしようということて参加者107名が現地集合。伴奏の川口先生とステージ練習を済ませて他の演奏を聞く。さすが、全国から選ばれた合唱団だけあっていずれも好演で聞きに来ただけでも充分満足できた。岡谷も大人数で余裕のある演奏は好評を博し、皆堂々と歌い上げた満足感で目に涙したものだった。『どしょっこふなっこ』はレコードに収録されて発売になった。フィナーレの全員合唱『さよならみなさま』は岡谷が再びステージに立ち、会場の聴衆とはなやかに歌ったのである。

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